秋の深まりが本格的になり、江戸の町が冷涼な空気に包まれていたある日のこと。 清水観音堂の境内は、江戸の名所を一目見ようと訪れる物見高い人々や、子育て観音へ祈りを捧げる母親たちで連日賑わっていた。
そんな境内の一角、ひときわ見事な枝ぶりを見せる「月の松」の特等席の前に、一人の男が陣取っていた。 ボサボサの髪に無精ひげ、着古した着物の裾を無造作にはためかせているその男は、江戸中でその名を知らぬ者はいない天才絵師・歌川広重その人だった。
「ううむ……これだ。この松の円の向こうに不忍池の辯天堂を収めると、どうにも構図の収まりが良い。だが、肝心の『風の抜け方』がどうも物足りない……」
広重は手元の写生帖に一心不乱に筆を走らせながら、ぶつぶつと独り言を呟いている。その鬼気迫る様子に、まわりの参拝客たちはそっと道をあけて距離をとっていた。
そこへ、お使い帰りのちーこが、町役人の蒼井を伴って通りかかった。
「あら、あんなところで絵師様が唸っていらっしゃるわ。……って、あれは歌川の先生じゃありませんこと?」 ちーこが足を止めると、蒼井も腕を組んで遠くからその様子を眺めた。 「ああ、例の『名所江戸百景』の連作を描いている最中とかで、最近はこの上野の山に出ずっぱりらしい」
「せっかくの清水観音堂なのですから、もっと素敵な景色を描いていただきたいわね。ねえ、蒼井さま、ちょっとご挨拶に行ってみましょう?」 「おい、邪魔をするんじゃない……って、おい、ちーこ!」
制止する間もなく、ちーこはひょいっと広重の背後に回り込み、その写生帖を覗き込んだ。
「まぁ! 月の松の輪郭がとても綺麗に出ているけれど……先生、少しだけ視点を右にずらしてみてはどうかしら? ちょうどあの小舟が池の真ん中を横切る瞬間を重ねたら、もっと江戸の活気が出ると思いますわ」
いきなり背後から声をかけられ、広重はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。 「なんだ、娘っ子……って、お前は以前も――」 広重はちーこの顔を見るやいなや、はたと手を叩いた。
「おっ、そうだ! お前、この間の花園稲荷のときにも的確な意見をくれた……あの時の!」 「ふふ、覚えていてくださって光栄ですわ。せっかくの上野の絶景ですもの、どうせなら江戸中の人々が『今すぐここへ行きたい』って思えるような、そんな生き生きとした絵にしてほしいのです」
広重はちーこの言葉にハッと目を丸くし、それから豪快に笑った。 「ははっ、面白い! 『今すぐ行きたい』か。……よし、その意見、いただきだ!」
広重が再び猛烈な勢いで筆を走らせ始めたのを確認し、ちーこは満足そうにふふっと笑った。 その様子を少し離れた場所で見守っていた蒼井は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな複雑な表情で近づいてくる。
「お前はまったく……相手が誰であろうと、物怖じしないというか、何というか……」 「だって、事実ですもの。素晴らしい景色は、たくさんの人に知ってもらったほうがこの町も元気になるでしょう?」
すまし顔で答えるちーこの横顔を見つめながら、蒼井は小さく息をつき、それからふっと優しく目を細めた。 「……まあ、お前のそういう真っ直ぐなところ嫌いじゃないがな」
「え? 何かおっしゃいました?」 「なんでもない。ほら、日が暮れるぞ。帰るぞ、ちーこ」
蒼井がスッと差し出した手に、ちーこは少し驚いたように瞬きをしたあと、嬉しそうに自分の手を重ねた。 背後では、歌川広重が描き上げる『名所江戸百景』のなかに、月の松と不忍池、そして温かな未来を予感させる美しい景色がしっかりと刻まれていく。
夕暮れの江戸の空の下、手を繋いで歩くふたりの足取りは、いつまでも温かな絆に包まれていた。

