江戸の厄除けと、静謐の杜に込めた願い
時は江戸時代中期――元禄から宝永にかけての、江戸の町が活気に満ちあふれながらも、しばしば疫病や災害の不安に揺れていた頃。 上野の山の北側にひっそりと佇む寛永寺の開山堂(両大師)の境内は、今日もうだるような暑さや得体の知れない病の流行から我が身を守ろうと、切実な祈りを捧げる庶民たちの姿で静かな賑わいを見せていた。
まだ若々しい木々が作り出す深い木漏れ日のなか、地味ながらもきちんとした身なりの町娘姿をしたちーこと、少しやつれた表情の町民を装った蒼井が、重厚なお堂の前に佇んでいた。
「ふう……本当に、最近はまた変な咳の病が流行っているって噂だから、みんな必死ね……」 ちーコが手拭いでそっと汗を拭いながら、お堂の柱に貼られた元三大師の「角大師(つのだいし)」のお札をじっと見つめた。
蒼井は腕を組み、天海大僧正がこの地に慈眼堂を建て、さらに第2世住持の慈海大師とともに「両大師」として人々の心の拠り所を守り抜いてきた歴史の重みを噛み締めながら静かにうなずいた。 「ああ。幕府の威光を示す東照宮が『表の結界』だとするなら、ここはまさに、江戸の町に暮らす人々一人ひとりの恐怖や不安を和らげる『裏の守り』だ。目に見えない災いに対して、人々はこのお札を戸口に貼り、家族の無事を必死に祈ったんだからな」
「ねえ、蒼井さま……」 ちーコがふと表情を和らげ、蒼井の着物の袖を軽く引っ張った。 「華やかなお祭りや賑やかな芝居小屋もいいけれど、こういう静かなお堂で、家族が明日も元気に暮らせますようにって願う人たちの姿を見ていると……なんだか、胸がキュッとなるわ」
ちーコのまっすぐで温かな眼差しを受け止め、蒼井はゆっくりと視線を境内を行き交う人々の背中へと向けた。 「そうだな……。世の中がどれほど大きく揺らいだとしても、こうした人々の細やかな日常や、誰かを大切に想う祈りの積み重ねこそが、この江戸の町を本当の意味で支えてきたのかもしれないな」
西日が沈みかけ、木々の間から差し込む光が深い茜色へと移り変わっていく。 静寂に包まれたお堂の影が長く伸びるその景色の中で、蒼井はそっと自分の手を差し出した。
「そろそろ冷えてきたな。帰るぞ、ちーこ」 「はい、蒼井さま」
差し出された温かな手に、ちーこはふわりと笑顔を咲かせて自分の手をしっかりと重ね合わせた。 江戸の庶民の切実な祈りが眠る厳かな杜のなかで、ふたりの絆もまた、時代を越えて確かな温もりとなって結ばれていくのだった。
厄除けの護符と、杜を揺らす職人の意気込み
時は江戸時代中期――元禄文化の華が咲き誇り、江戸の町が独自の活気とエネルギーに満ちあふれていた頃。 上野の山の北側に鎮座する寛永寺の開山堂(両大師)の境内は、華やかな東照宮の喧騒とは打って変わり、疫病や災難を払い除けようと切実な祈りを捧げる参詣客や、魔除けの護符を求める人々で静かな熱気を帯びていた。
そんな中、お堂の脇に設けられた授与所の近くで、一枚の古い木版画をじっと覗き込みながら唸り声を上げている男の姿があった。 江戸の町で評判の、腕利きの彫物師である。
「ううむ……これだ! この元三大師の化身とされる『角大師』の意匠……! 単なる魔除けの護符でありながら、人々の恐怖を退け、心を奮い立たせるような圧倒的な気迫がこの線に宿っている……!」
彫物師が鋭い目で木版の目を確かめていると、軽やかな足取りで近づいてくる二つの影があった。 町娘の装いをしたちーこと、少し着崩した羽織姿で涼しげな顔をした蒼井である。
「あら、あんなところで職人さんが真剣な顔をして木版を睨みつけているわ」 ちーコが足を止めると、蒼井は腕を組んでその様子を眺めた。 「ああ。両大師の厄除けのお札や角大師の意匠は、江戸の町民たちにとって生活に欠かせない魔除けだ。職人たちが命を削るようにして彫り上げているからこそ、その信仰の力が宿るんだろうな」
「せっかくの人々の不安を救う大切な護符なんだから、ただ怖い顔に彫るだけじゃなくて、見る人が思わず安心できるような力強さと温かみが両立してほしいわよね。ねえ、蒼井さま、ちょっと覗いてみましょう?」 「おい、また勝手に……って、おい、ちーこ!」
制止する間もなく、ちーこはひょいと彫物師の背後に回り込み、その手元をのぞき込んだ。
「まぁ! 見事な彫りですけれど……職人さん、もう少しだけ目のあたりの線に鋭いハイライトを入れて、厄を追い払う意志の強さを際立たせてみてはどうかしら? そうすれば、このお札を手にした人たちが、もっと心から安心できると思いますわ」
いきなり背後から声をかけられ、彫物師はビクッと大きく肩を跳ねさせて振り返った。 驚きに目を見開いたあと、彼はハッと手を叩いた。
「おっ、お前さんは……さっきから境内で熱心に参詣客の様子を見ていた……!」 「ふふ、お邪魔してごめんなさいね。この寛永寺の開山堂は、豪華な社殿こそないけれど、江戸の町に暮らす人たちの日常と不安をずっと支えてきた一番大切な場所ですもの。ぜひ、その人々の祈りに真っ直ぐ応えられる最高の護符を彫り上げてくださいませ」
彫物師はちーコの言葉にハッと目を見張り、それから深くうなずいて息を吐いた。 彼女の鋭い指摘に刺激されたように、彼はさらに力強く彫刻刀を握りしめた。 「なるほど……『人々の不安を救う意志の強さと温もり』か! その洒落たアドバイス、ぜひこの版木に活かさせてもらうよ!」
彫物師が再び夢中で作業を再開したのを確認し、ちーこは満足そうに微笑んだ。 その様子を少し離れた場所で見守っていた蒼井は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな優しい表情で近づいてくる。
「お前はまったく……どこへ行ってもすぐに職人の創作意欲や仕事のツボに火を付けるんだな」 「だって、事実ですもの。大切な人たちを守るための仕事は、いつだって本気じゃなきゃ意味がないでしょう?」
すまし顔で答えるちーこを見つめながら、蒼井は小さく息をつき、それからふっと柔らかく目を細めた。 基金の静けさが戻った境内を歩きながら、彼は呟くように言った。
「……まあ、お前がそうやって周りを奮い立たせてくれるからこそ、俺も日々救われているんだがな」
「え? 何かおっしゃいました?」 「なんでもない。ほら、すっかり日が暮れてきた。帰るぞ、ちーこ」
蒼井がすっと差し出した実に自然な手に、ちーこはふわりと笑みを咲かせ、自分の手をしっかりと重ね合わせた。 背後では、夕闇に包まれ始めた寛永寺・開山堂の杜がひときわ深い静けさを纏い、江戸の夜の安心と温かみがゆっくりと訪れようとしていた。

