時は江戸後期。吹く風に少しずつ秋の深まりが感じられるようになった頃のこと。 上野の山下に店を構える老舗呉服問屋の一人娘・ちーこは、母親に頼まれたお使いの帰り道、ふと足を止めて上野の杜へと続く石段を見上げていた。
「少しだけ、寄り道していっても怒られないわよね……」
お目当ては、江戸の人々の間で評判となっている「清水観音堂」だ。京の清水寺を模した美しい舞台造りのお堂で、何より最近、境内にある「月の松」の枝の輪から眺める不忍池の景色が格別に美しいと聞いていたからだ。
朱塗りの欄干が鮮やかな舞台へと上がり、ふうっと息をつく。眼下には広大な不忍池の水面が広がり、夕暮れ迫る水上を行き交う小舟の姿が何とも風流だった。
「――こんなところで一人、何をしている、ちーこ」
背後から掛けられた落ち着いた、それでいてどこか聞き慣れた低い声に、ちーこは肩をびくりと揺らして振り返った。 そこに立っていたのは、腰に十手を帯びた町役人であり、剣術道場の師範代も務める蒼井その人だった。
「もう、蒼井さま! そんなに忍び足で近づかないでくださいまし。心臓が飛び出るかと思いましたわ」 「お前が供も連れずに、夕暮れ時の上野の山をウロウロしているからだろう。辻મારી(つじまわり)のついでに声をかけただけだ」
ぶっきらぼうに言いながらも、蒼井の鋭い目は、ちーこが怪我をしていないか、怯えていないかとしっかりと全身を確かめていた。
「ふんだ、見回りのついでになんて言って、本当は私を探していたのではありませんこと?」 ちーこがわざとらしく小首をかしげてみせると、蒼井の端正な顔がわずかに強ばり、サッと耳たぶが赤に染まった。
「……うるさい。女の子が一人で歩くには、少し日が暮れかけていると言っているんだ。ほら、帰るぞ」 蒼井はそれ以上追及されるのを避けるように、さっと身を翻して「月の松」の脇へと歩み寄った。
ちーこはクスッと小さく笑うと、その後を追って松の木のそばに並み立った。 「ねえ、蒼井さま。見てください、あの松の枝を」
ちーこが指さした先では、見事な円を描く松の輪の向こうに、夕日に照らされた不忍池と辯天堂の姿が、まるで一枚の絵画のように切り取られていた。
「……本当だな。江戸百景に描かれるだけはある」 蒼井が感心したように呟くと、ちーこはふっと表情を柔らかくし、夕闇に溶けゆく空を見上げた。
「私、ここに来るたびに思うんです。京の清水寺に負けないくらい、この上野の景色も素敵だって。それに……」 言葉を区切ったちーこは、そっと視線を隣の蒼井に向けた。
「こうして、蒼井さまと一緒にこの景色を眺められる時間が、私にとって一番大切なんです」
静かな境内に、秋の夜風が心地よく吹き抜ける。 いつもは毅然としている町役人の蒼井も、この不意打ちの素直な言葉には返す言葉を失った。彼は少しだけ息を飲み、それから決心したように、そっと自分の手を差し出した。
「……危ないからな。帰り道は、手を繋いでいくぞ」 「……はい。喜んで」
照れくさそうに顔を背ける蒼井の大きな掌に、ちーこは自分の小さな手をしっかりと重ね合わせた。 月の松が描き出す美しい円の向こうで、夕日がゆっくりと沈んでいく。ふたりの影は、穏やかな温もりに包まれながら、いつまでも静かに寄り添っていた。

