飯倉熊野権現 大江戸編 『帰る道を知る烏』

江戸の朝、ちーこと蒼井09 大江戸街歩き物語
江戸の朝、ちーこと蒼井09

~江戸時代のちーこと恒一郎・参拝短編~

江戸の朝は早い。
日が高くなる前から、町には人の声があふれていた。
魚を売る声。
豆腐屋の拍子木。
荷車の軋む音。
軒先から軒先へ渡っていく女たちの話し声。
そして、そのどれにも負けないほど威勢のいい声が、三ツ葉屋の店先から聞こえていた。

「だから、それは飯倉へ届ける荷なのでしょう?」ちーこが帳場の前で腰に手を当てていた。

二十五歳。
三ツ葉屋の娘として生まれ、商いの手伝いをしながら育った。
気立てはいい。
人の困り事を放っておけない。
けれど少々おっちょこちょいで、何事にも首を突っ込みたがる。
そして何より、本人が望む望まぬにかかわらず、人の目を引く娘だった。
すらりとした身体つき。
よく動く大きな瞳。
笑えば柔らかく、怒れば妙に迫力がある。
江戸の娘としては少し華やかすぎる。
そんな評判さえ、町内ではすっかり聞き慣れたものになっていた。

「お嬢さん、確かに飯倉ですがね」番頭の伊兵衛が困った顔をする。

「それなら、わたしが届けます」

「届けるだけなら手代に任せれば済むことで」

「わたしが参ります」

「ですから、それが心配なのでございます」

「なぜです」

「昨日、お嬢さんは日本橋へ使いに出て、帰りに団子屋へ寄り、そこで知り合ったお婆さんの荷物を運び、そのまま違う町まで行ってしまったではありませんか」
ちーこは少し考えた。

「でも、お婆さんは喜んでおりました」

「そういう話ではございません」

店の奥から父親の笑い声がした。
ちーこは聞こえないふりをした。
本当のところ、飯倉へ行きたい理由は荷物だけではなかった。
飯倉には熊野権現がある。
旅の無事。
災い除け。
そして、人が正しい道へ導かれるよう願う社として町人たちに知られていた。
昨日、客のひとりからそんな話を聞いたのである。

さらに――
熊野では、神前へ誓いを立てる起請文というものがあり、そこには牛王宝印なるものを用いるという。
ちーこの好奇心が騒がないはずがなかった。

「では決まりです」

「何も決まっておりません」

「飯倉へ参ります」

「お嬢さん」

そのとき。
店の前から、男の声がした。

「また何か始めたな」ちーこが振り向く。

紺の着流しに袴。
腰には大小。
背筋はまっすぐ伸びている。
蒼井恒一郎だった。
町役人を務める蒼井家の長男。
二十八歳。
剣術道場を開きながら、町の見回り役を務めている。
そして、ちーこの許嫁でもあった。

「恒一郎さま」

「その顔は、何か企んでいる顔だ」

「失礼ですね」

「伊兵衛どの」恒一郎は番頭へ尋ねた。

「何があった」伊兵衛は救いを求めるように答えた。

「お嬢さんが飯倉へ荷を届けると申しておりまして」

「ほう」

「熊野権現にも参りたいのです」
ちーこが付け加えた。

恒一郎の眉が少し動いた。

「荷を届けるだけなら、手代でよいだろう」

「恒一郎さままで同じことを」

「見回りの途中で飯倉を通る。俺が様子を見ておこう」

「なら、わたしも参ります」

「なぜそうなる」

「一緒に行けば安心でしょう」

「誰が」

「皆が」伊兵衛が強くうなずいた。

恒一郎はそれを見て、小さくため息をついた。

「……分かった」

「まあ」

「ただし、勝手に離れるな」

「離れません」

「道草もしない」

「いたしません」

「騒ぎに首を突っ込まない」ちーこは黙った。

「返事は」

「最後のひとつだけ、考えさせてくださいませ」

「考えるな」店先に笑いが広がった。

こうして、飯倉行きが決まった。