明治中期、文明開化の波が東京の街並みを一新させ、上野の杜もまた近代的な公園として生まれ変わりつつあった頃のこと。 西洋から入ってきた新しい技法や絵具に夢中になっていた若き洋画家・浅井は、近代化の喧騒から少し離れた上野大仏の境内に足を運んでいた。
「ううむ……これだ。この『顔面だけ』になりながらも毅然と佇む姿、そして西洋の彫刻とも日本の仏像とも違う、この圧倒的な存在感……絵の具のノリだけでは到底表しきれん」
浅井は写生帖を片手に、眉間にしわを寄せながら唸り声を上げていた。明治という新しい時代への移行期、街がどれほど西洋化しても、人々が心の拠り所として抱いてきた「祈りの形」の重みは、彼の画家としてのアンテナを激しく刺激していたのだ。
そこへ、文明開化のハイカラな装いに身を包んだちーこと、洋行帰りの役人風の身なりをした蒼井が散策がてら通りかかった。
「あら、あんなところで浅井の先生が真剣な顔でスケッチをなさっているわ」 ちーこが足を止めると、蒼井も腕を組んでその様子を遠くから眺めた。 「ああ、最近はこの上野大仏の姿をカンバスに収めようと、多くの画家や写真家が日参しているらしいな」
「せっかくの新時代なのですから、ただ過去の傷跡として描くだけじゃなくて、この大仏様が持つ『何度倒れても前を向く強さ』を世界中に伝えてほしいわね。ねえ、蒼井さま、ちょっとご挨拶に行ってみましょう?」 「おい、また勝手に……って、おい、ちーこ!」
制止する間もなく、ちーこはヒョイと浅井の背後に回り込み、そのスケッチブックを覗き込んだ。
「まぁ! 見事な筆遣いですねけれど……先生、少しだけ視点を下からあおるようにして、背景の新しい東京の空を広く入れてみてはどうかしら? そうすれば、お顔だけになってもなお空を見上げる大仏様の力強さが、より引き立つと思いますわ」
いきなり背後から声をかけられ、浅井はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。 ジングリとした眼鏡の奥から驚愕の目を向けたあと、彼はハッと手を叩いた。
「おっ、君は……先日の上野の展覧会でも鋭い批評をくれた……!」 「ふふ、覚えていてくださって光栄ですわ。この大仏様は、度重なる試練で体を失っても、こうして私たちを真っ直ぐ見守ってくださっている。だからこそ、新しい時代を生きる人たちの『折れない心』のシンボルとして描いていただきたいのです」
浅井はちーコの言葉に深く頷き、それから感嘆したように息を吐いた。 「なるほど……『折れない心』か。西洋の美術ばかり追っていたが、足元にあるこの母国の祈りの深さを忘れていたよ。そのアイデア、ぜひこのカンバスに頂戴しよう!」
浅井が再び情熱的な眼差しで筆を走らせ始めたのを確認し、ちーこは満足そうに微笑んだ。 その様子を少し離れた場所で見守っていた蒼井は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな優しい表情で近づいてくる。
「お前はまったく……時代が変わっても、相変わらず誰の懐にもスルスルと入り込むんだな」 「だって、事実ですもの。素晴らしい歴史や想いは、たくさんの人に伝わってこそ意味があるでしょう?」
すまし顔で答えるちーこを見つめながら、蒼井は小さく息をつき、それからふっと柔らかく目を細めた。 「……まあ、お前のその真っ直ぐさに、いつも救われているのは確かだがな」
「え? 何かおっしゃいました?」 「なんでもない。ほら、夕暮れだ。帰るぞ、ちーこ」
蒼井がスッと差し出した手に、ちーこはふわりと笑みを咲かせ、自分の手をしっかりと重ね合わせた。 背後では、明治の新しい空の下で、上野大仏が穏やかな表情をたたえたまま、遠くの未来を見据えるように静かに佇んでいる。
新しい時代を共に歩むふたりの足取りは、温かな絆に包まれて、いつまでも軽やかだった。

