時は江戸後期。初秋の冷気が心地よくなり始めた頃のこと。 上野山下に店を構える老舗織物問屋の一人娘・ちーこは、お使いのついでと称して、一人で忍が岡の森へと足を向けていた。
「ふう、やっぱりこの時期の花園稲荷さまは空気が澄んでいて気持ちがいいわね」
目当ては、近頃めっきり縁結びのご利益で評判となっている「穴稲荷」のお守りだ。仲の良い職人の娘が近々祝言を控えているため、そのお祝いにどうしてもここの良縁のお守りを授かりたかったのだ。
朱色の鳥居が連なる回廊を軽やかな足取りでくぐり抜け、崖下の岩屋――穴稲荷のひんやりとした洞窟へと足を踏み入れる。外の明るい陽光から一転して、洞窟内は厳かな薄闇に包まれ、お供えの灯火が揺らめいていた。
「……こんなところで何をしている、ちーこ」
背後から掛けられた低い声に、ちーこは肩をびくりと揺らして振り返った。 そこに立っていたのは、腰に十手を帯びた町役人であり、剣術道場の師範代も務める許嫁の蒼井だった。
「もう、蒼井さま! そんな急に後ろから声をかけないでくださいまし。心臓が止まるかと思いましたわ」 「お前が供も連れずに、こんな隠れ家みたいな洞窟に入っていくからだろう。町役人として、不審者がいないか見回りしていただけだ」
ぶっきらぼうに言いながらも、蒼井の目はちーこが怪我をしていないか、怯えていないかとしっかりと全身を捉えていた。
「不審者なんて失礼ね。私はね、お友達のお祝いにお守りをいただきに来たのよ。ほら」 ちーこが手元の授与品を見せると、蒼井はふっと小さく息をついた。
「……全く。一人で出歩くのは控えろと言ってあるはずだ。特にこの穴稲荷のあたりは、昔から様々な言い伝えがある場所だからな」 「うふふ、心配性なんですから。でも、蒼井さまこそ、どうしてこんな奥まで見回りに?」
ちーこがいたずらっぽく小首をかしげると、蒼井の端正な顔がわずかに強ばり、サッと耳たぶが赤くなった。

