時は江戸時代中期――元禄から享保の世を過ぎ、江戸の町が独自の爛熟した文化を花咲かせていた頃。 上野東照宮の境内は、徳川の威光を伝える厳かな神域でありながら、参詣の途中に立ち寄る町人や文人墨客たちで連日賑わいを見せていた。
そんな中、社殿の脇にある立派な松の木の陰で、一心不乱にスケッチブックを広げている男の姿があった。 江戸中期を代表する気鋭の絵師である。
「ううむ……これだ! この黄金に輝く唐門の彫刻の立体感と、幾重にも重なる透塀の陰影……! ただの建造物ではない、この場所に満ちる気高い気配をどうすれば一枚の絵に閉じ込められるか……!」
絵師が唸り声を上げながら筆を走らせていると、軽やかな足取りで近づいてくる二つの影があった。 町娘の装いをしたちーこと、少し着崩した羽織姿で涼しげな顔をした蒼井である。
「あら、あんなところで絵師の先生が真剣な顔で筆を止めているわ」 ちーこが足を止めると、蒼井は腕を組んでその様子を眺めた。 「ああ。東照宮の豪華絢爛な建築美は、いつの時代も多くの絵師や職人たちの心を惹きつけてやまないからな」
「せっかくの徳川の聖地なんだから、ただお堅く描くだけじゃなくて、この杜を訪れる人たちのワクワクする空気感や、社殿に差し込む神々しい光のコントラストまでまるごとキャンバスに閉じ込めてほしいわね。ねえ、蒼井さま、ちょっと覗いてみましょう?」 「おい、また勝手に……って、おい、ちーこ!」
制止する間もなく、ちーこはひょいと絵師の背後に回り込み、その写生帖をのぞき込んだ。
「まぁ! 見事な筆づかいですけれど……先生、もう少しだけ手前の石畳の質感にハイライトを入れて、奥の金色殿がふわりと浮かび上がるようなアングルにしてみてはどうかしら? そうすれば、この杜が持つ神聖さと温かみがもっと引き立つと思いますわ」
いきなり背後から声をかけられ、絵師はビクッと大きく肩を跳ねさせて振り返った。 驚きに目を見開いたあと、彼はハッと手を叩いた。
「おっ、君は……先ほども参道で見かけた……!」 「ふふ、覚えていてくださって光栄ですわ。この上野東照宮は、徳川の祈りが眠る厳かな場所であると同時に、今や江戸中の人たちがその美しさに息を呑む最高の芸術空間ですもの。ぜひ、その感動まで生き生きと描き出してくださいませ」
絵師はちーコの言葉にハッと目を見張り、それから深くうなずいて息を吐いた。 彼女の鋭い視点に刺激されたように、彼はさらに力強く筆を走らせ始めた。 「なるほど……『神聖さと温かみ』か! その洒落たアイデア、ぜひこの一枚にいただこう!」
絵師が再び夢中で筆を動かし始めたのを確認し、ちーこは満足そうに微笑んだ。 その様子を少し離れた場所で見守っていた蒼井は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな優しい表情で近づいてくる。
「お前はまったく……どこへ行ってもすぐに人の創作意欲に火をつけるんだな」 「だって、事実ですもの。素晴らしい景色や感動は、みんなで分かち合った方が何倍も素敵でしょう?」
すまし顔で答えるちーこを見つめながら、蒼井は小さく息をつき、それからふっと柔らかく目を細めた。 「……まあ、お前がそうやって周りを明るくしてくれるからこそ、俺も日々救われているんだがな」
「え? 何かおっしゃいました?」 「なんでもない。ほら、すっかり日が暮れてきた。帰るぞ、ちーこ」
蒼井がすっと差し出した手に、ちーこはふわりと笑みを咲かせ、自分の手をしっかりと重ね合わせた。 背後では、夕闇に包まれ始めた上野東照宮の金色殿がひときわ重厚な輝きを放ち、江戸の夜の静けさと温かさがゆっくりと訪れようとしていた。

