文化文政の世――町人文化が爛熟期を迎え、江戸の人々が日々の暮らしや娯楽を心から謳歌していた華やかな時代。 不忍池の広大な水面は、たくさんの納涼船や貸しボートで行き交い、三味線や歌声、人々の楽しげな話し声が夕暮れの杜に響き渡っていた。
そんな賑わう池のほとりで、少し離れた水上を見つめながら、熱心にスケッチブックを広げている男がいた。 江戸後期を代表する浮世絵師・歌川の一門である。
「ううむ……これだ。この夕暮れの不忍池、弁天堂の朱色、そして水面に浮かぶ舟の賑わい……! 西洋の遠近法を取り入れつつも、江戸ならではのこの粋な空気感、どう切り取るべきか……!」
絵師が夢中で筆を走らせていると、軽やかな足取りで近づいてくる二つの影があった。 町娘の装いをしたちーこと、少し着崩した羽織姿で涼しげな顔をした蒼井である。
「あら、あんなところで絵師の先生が真剣な顔で筆を走らせているわ」 ちーこが足を止めると、蒼井は腕を組んでその様子を眺めた。 「ああ、今の不忍池は文化人や町人たちの格好の遊び場だからな。絵の題材には事欠かないのだろう」
「せっかくの華やかな江戸の粋なんだから、ただ静かなお堂を描くだけじゃなくて、この水面で舟を漕ぐ人たちの笑い声や、弁天様の賑わいまでまるごとキャンバスに閉じ込めてほしいわね。ねえ、蒼井さま、ちょっと覗いてみましょう?」 「おい、また勝手に……って、おい、ちーこ!」
制止する間もなく、ちーこはひょいと絵師の背後に回り込み、その写生帖を覗き込んだ。
「まぁ! 見事な構図ですねけれど……先生、もう少しだけ手前の蓮の葉を大きく入れて、奥の弁天堂をすくい上げるようなアングルにしてみてはどうかしら? そうすれば、水上に浮かぶ浮世の楽園の雰囲気がもっと引き立つと思いますわ」
いきなり背後から声をかけられ、絵師はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。 驚きに目を見開いたあと、彼はハッと手を叩いた。
「おっ、君は……先日の芝居小屋の帰りに見かけた……!」 「ふふ、覚えていてくださって光栄ですわ。この不忍池は、天海様が造った祈りの場であると同時に、今や江戸中の人たちが笑顔になれる最高のオアシスですもの。ぜひ、その活気まで生き生きと描いてくださいませ」
絵師はちーコの言葉に深く頷き、それから感嘆したように息を吐いた。 ライバルたちの熱意に触発されたように、彼はさらに力強く筆を走らせ始めた。 「なるほど……『浮世の楽園』か! その洒落たアイデア、ぜひこの一枚にいただこう!」
絵師が再び夢中で筆を動かし始めたのを確認し、ちーこは満足そうに微笑んだ。 その様子を少し離れた場所で見守っていた蒼井は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな優しい表情で近づいてくる。
「お前はまったく……どこへ行ってもすぐに人の懐に飛び込むんだな」 「だって、事実ですもの。素晴らしい景色や楽しい時間は、みんなで分かち合った方が何倍も素敵でしょう?」
すまし顔で答えるちーこを見つめながら、蒼井は小さく息をつき、それからふっと柔らかく目を細めた。 「……まあ、お前がそうやって周りを明るくしてくれるからこそ、俺も救われているんだがな」
「え? 何かおっしゃいました?」 「なんでもない。ほら、すっかり日が暮れてきた。帰るぞ、ちーこ」
蒼井がすっと差し出した手に、ちーこはふわりと笑みを咲かせ、自分の手をしっかりと重ね合わせた。 背後では、夕闇に包まれ始めた不忍池の水面に弁天堂の朱色が幻想的に映え、江戸の夜の静けさと温かさがゆっくりと訪れようとしていた。

