時は江戸後期。上野山下に店を構える老舗織物問屋の奥座敷で、ちーこはパチンと算盤の玉を弾き、大きく伸びをした。
「ふう、今月の帳簿付けもおしまい! お父っつぁん、お使いに行ってくるわね」 「おいおいちーこ、どこへ行く気だい」 帳場から顔を出した父親に、ちーこは仕立てのよい浅葱色の小袖の袂を揺らしながら、にっこりと微笑んでみせた。
「番頭さんがこのところ風邪気味で咳き込んでいるでしょう? 忍が岡の五條天神さまへ、無病息災のお札をいただきに行って参ります」 「そいつはありがたいが……お供は連れていくんだよ」 「大丈夫、すぐそこですもの!」
父親の呼び止める声を背に、ちーこは弾むような足取りで店を飛び出した。
広小路の賑わいを抜け、忍が岡の木々が生い茂る坂道へと差し掛かったところで、背後から低く凛とした声が降ってきた。
「……ちーこ。また供も連れずに、一人でふらふらとどこへ行く気だ」
振り返ると、腰に十手を差し、黒の羽織を端正に着こなした若者が立っていた。町役人であり、実家の剣術道場で師範代も務める許嫁の蒼井だ。
「あら、蒼井さま。偶然ですこと」 「偶然なものか。大店の娘が一人で歩いていれば悪目立ちする。……ちょうど忍が岡のあたりも見回り筋だ。送っていく」
ぶっきらぼうに言いながらも、蒼井はちーこの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。並んで歩く距離に、ちーこは口元をほころばせる。
木々に囲まれた石段を降りると、五條天神社の境内には独特の清涼な静寂が広がっていた。薬草の爽やかな香りが風に乗って微かに漂ってくる。
「五條天神さまは、日本武尊さまがこの地でお祀りされた医薬の祖神ですからね。番頭さんの風邪も、きっとすぐに良くなりますわ」 「ああ。大己貴命と少彦名命のご神徳だな。ちーこは相変わらず信心深い」
手水で清め、ふたり並んで拝殿の前で静かに手を合わせる。真剣に祈るちーこの横顔を、蒼井はそっと盗み見た。長い黒髪に木漏れ日が揺れ、境内の緑に美しく映えている。
参拝を終え、社務所でお札を授かって境内へ戻ったときだった。
「うわああん!」
拝殿の脇で、五歳ほどの小さな男の子が泣きじゃくっていた。さらにそのすぐ側で、慌てた様子で懐を探る薬種問屋の手代風の男と、その男の背後からすっとすれ違いざまに手を伸ばす、編笠を深くかぶった怪しい男の姿があった。
ちーこの鋭い観察眼が、瞬時にその異変を捉えた。
「蒼井さま、あそこ! あの男、手代さんの薬包の入った巾着を……!」 「何っ」
ちーこの指さす先へ、蒼井は風のように地を蹴った。 逃げようとする編笠の男の肩口を掴み、電光石火の早業で腕をねじ上げる。
「町役人だ、神域で無体を働くな!」 「ぐわっ……! は、離せ!」
道場仕込みの鮮やかな身のこなしに、男は身動き一つできなくなった。 その間に、ちーこは泣き叫ぶ男の子の元へ駆け寄り、目線を合わせて優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ、怖くないわ。ほら、お母さんはあっちの茶屋の前にいるわよ」
ちーこが指さした先から、青ざめた母親が駆け寄ってくる。手代の男も戻ってきた巾着を胸に抱き、蒼井とちーこに何度も深々と頭を下げた。
「お役人さま、お嬢さん、本当にありがとうございました! お得意先へ届ける大事な薬だったのです!」
騒動を見事に収め、ふたりは上野山下の団子茶屋へと立ち寄った。
夕暮れの風が吹き抜ける軒先で、運ばれてきた名物の焼き団子とお茶をいただく。
「ふふ、蒼井さまのあの身のこなし、見事でしたわ」 「お前の目ざとさには敵わないよ。よくあの人混みの中で見抜いたな」
蒼井は湯呑みを手に、ふっと目元を和らげた。
「ちーこ」 「はい?」 「番頭の心配もいいが……お前自身も、身体を壊すんじゃないぞ。お前が無茶をするたび、俺の心臓が持たん」
不器用ながらも真っ直ぐな言葉に、ちーこは胸がトクンと跳ね、耳まで真っ赤になった。
「……はい。蒼井さまが見守ってくださるなら、私、ずっと元気でいられますわ」
見つめ合うふたりの頭上、寛永寺の「時の鐘」がゴーンと暮れ六つの音を響かせた。 忍が岡の空が茜色から深い藍色へと移ろう中、ふたりは並んで、ゆっくりと家路についた。

